テレビを観るのをやめられない人は洗脳されている

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転載元:zeraniumのブログさんより転載

テレビを観るのをやめられない人は洗脳されている

   私たちの行動や選択は、誰かに言われてそうしているのではないと思っていても、実際には知らない間に行なわれた洗脳によって、無意識のうちにそうさせられていることが多いのです。たとえば仕事を終えて帰宅し、玄関のドアを開けて部屋に入り、着替えもそこそこにテレビのスイッチをいれる。大抵の人であればこうした行動は珍しいものではないはずです。ではなぜ帰宅すると、真っ先にテレビのスイッチを入れるのか。この問いにはっきりした理由を言える人は少ないと思います。ただ何となく寂しいからとか、そういうものであるはずです。つまり、何となく、なのです。

   明確な理由がないままに自分がとる行動は、私に言わせれば、すべてが洗脳の賜(たまもの)なのです。誰かが「帰宅したらすぐにテレビをつけなさい」という言葉を吹き込んだわけでもないでしょう。しかし、駅で見たポスターのタレントがその動作をしていたり、テレビドラマの主人公がそうしているのを見たりしたことがあったのかもしれず、そうした視覚からの影響も実は小さいことではなく、人間に理由なくそうした行動をとらせるための手段は言葉だけではないのは明らかです。

   しかし、人間にテレビをつけるように動機づけすることができたとすれば、さらにその人を洗脳の深みにはめるのは簡単なことです。私はこのことについていつも指摘しているのですが、あらゆる番組やコマーシャルのすべてが、視聴者に何かを買わせるための操作された仕掛けを施しています。

   テレビを観ることと、苦しむことには何の関係もないと思っているかもしれませんが、実はテレビを観ること自体が苦しいことになっていることに、大抵の人は気がつきません。つまり画面に映し出される洒落た商品や、芸能人が着たり、食べたり、持っているものを、どんなに羨ましいと思っても、そう簡単には手に入れることができないからです。そんなものを延々と見せられて、いったい何が楽しいというのでしょうか? テレビが楽しいものという認識自体が、すでに洗脳によって吹き込まれたものでしかないのです。

   テレビを良く観るという人は、本人はあまり意識していませんが、見終わるとたいていの人が不機嫌になっています。これは自分が置かれている現状の欲求不満を意識させられるからです。テレビを観る人を不機嫌にするのは、テレビが行なう洗脳の常套(じょうとう)手段です。人は自分の現状に不満を感じると、無意識のうちに視聴者はその不満を解消しようとして、大胆な消費行動に出ることがわかっています。

   このところネット上で行なわれているステマと呼ばれるステルス・マーケティングが問題になっていますが、そんなのは可愛いものです。なぜならテレビの世界にはそんなものより、より巧妙で強力なステルス・マーケティングがあふれているからです。しかもそれ以上に、すでにテレビを使った大々的な世論操作と国民煽動が行なわれていると疑ってかかる必要があるのです。

   にもかかわらず、それを楽しいと思い込んで観ている状態というのは、教会に行って心が洗われたような気持ちになっている、何らかの宗教の信者の姿と何ら変わりはありません。つまり資本主義という宗教が、テレビという聖職者を通じて、視聴者をいいように洗脳しているという図式です。この場合はスイッチを入れるという行為がサインとなって、視聴者はたちまち至福の世界に誘われます。

   私たちが日常的にやる無意識のうちにしている選択と行動を、それを本当に「自分のためのもの」に変えるためには、そのつど理由をはっきりさせてそれを主体的に選択し直すことから始めるしかありません。要するに、本当に自分がやりたいことだけをやる、ということを改めて意識し直すことなのです。

   するとそれを聞いた人たちのなかに必ず、「本当にこれがやりたいことなのかどうか確信が持てない」という人がいます。特に、その仕事が本当にやりたいものなのかどうか、急にわからなくなる人が多いようです。一つ明らかなことは、本当にやりたいことをやっているとき、人間は幸せな気持ちがするものです。ですからその意味では、そうしたことを頭で判断しようとしてもなかなかできないものです。

   やってみて、「これだ!」と感じることが大切です。
   楽しくて、ワクワクすることというのは、その人にとっての本当にやりたいことなのです。読者のみなさんは、仕事でも日常生活でも楽しい、ワクワクする、ということがあるでしょうか? しかし実際には悲しいことに、「ない」という人が圧倒的に多いのです。

   私たちは、まだ年端もいかない幼少の頃から、実は強力な洗脳を施されているという現実があります。それが世間的な常識というものであり、親や学校の先生から聞かされてきたものです。つまり、親や学校の先生も、彼らの親や先生から同じように洗脳されているわけで、それが現代まで延々と繰り返されて継続されており、権力者にとって都合のいい選択と行動を個人に取らせる社会という形で存続しています。

   ですからそうした、私たちを無意識のうちにコントロールしているアンバランスな考え方という洗脳の教えは、当然、私たちの文化という社会的土台にまで浸透しています。世界中のさまざまな文化が抱える宗教的な教えは、政治的な権力として利用され、「苦しむことはいいこと、貧しいことはいいこと」といったことが色濃く反映されています。

   その意味では、こうした環境において、自分が本当にやりたいことをやるために、誰かにやらされていることに気づいてそれを退けることは、口で言うほど簡単なことではありません。ですからそのために、それをやり続けることは本当は自分にとって苦しいことでしかないのに、それさえもわからなくなっている人がたくさんいるのです。それを覆(くつがえ)すためには、自分の中に埋め込まれた「恐怖」という「錨(いかり)」を取り除かなければなりません。ですから自分が本当にやりたいことを見出すためには、現代に張り巡らされた「洗脳ツール」から逃れるだけでは足りないのです。

   さて、人間というものは、一度何かのリアリティーという現実を受け入れると、その現実がその後のものの見方を決めてしまいます。つまり誰かが言ったことが「本当だ!」と思うと、そのリアリティーが自分の物事の解釈をつくっていくわけです。たとえば現在の日本で、福島の原発事故で「とんでもないことが起きた」という現実を受け入れた人々が、西日本へ向けて避難するという現象が起こりました。しかしそれが放射性物質を心配したがゆえのことであったならば、私は西日本への避難はあり得ないことだと思っています。

   なぜならヒロシマ、ナガサキにおいて、日本では第2次世界大戦で2発もの原子爆弾が炸裂したからです。その意味は、そのために西日本にある放射線の量は、未だに空間だけでなく土壌も依然として高いからです。放射性物質の半減期は、セシウム137で30年、プルトニウム239で2万4000年なわけですから、避難するならむしろ西日本を避けて、その反対方向の青森県や北海道でなければ道理に合わないはずなのです。

   しかしそうであるにもかかわらず、「健康被害が起きる」「西日本へ逃げるべきだ」というリアリティーの話を受け入れてしまった人々は、誰もがこぞって西日本へ向かうという珍現象が起きたのでした。つまり、自分の受け入れた現実が物事の解釈をつくるというのは、こういうことなのです。

   支配する側が、支配するために利用するものは常に恐怖です。
   恐怖心ほど、人間を強く縛り付けてしまうものはないと言えるのですが、そのために支配する側は、長い時間をかけて人々に恐怖の埋め込みを行なってきたと言えます。そのために利用されてきたものの代表が宗教です。たとえば日本ではその昔、各地の神社仏閣には地獄堂というものが併設されており、その八角形をしたお堂の中には壁面にいくつもの地獄絵図が飾ってありました。しかしこうした地獄絵図のもとになったものは、天台宗の恵心僧都(えしんそうず)が広めた中国の拷問の絵であったとされています。

   そしてあらゆる宗教にそうした恐怖を煽るものがあり、恐怖は教典そのものにしっかり組み込まれています。ですから彼らはそれ以前から恐怖というものを利用する術(すべ)を知っており、大衆の恐怖心に訴えることこそが、宗教への帰依を促す最強のツールであることを知っていたのです。

   ところで洗脳技術の世界でも、実は人間の恐怖心を操作することが一番の基本とされています。恐怖というのは人間にとってもっとも強い情動です。それを感じることができなければ自分を守ったり、危険な場所を避けることもできません。しかし生きるために人間がもっとも必要とした情動が、洗脳というものに都合よく使われているという事実は、実は思いのほか深刻なのです。そしてそれは私たちの日常へ入り込み、私たちが持つ本来の自由を大幅に制限するものになっているのです。

   それがどのように自分に影響しているかと言うと、自分の選択ではなく、他人の選択で物事を決めるようになるということです。それがテレビで見た今日の運勢であったり、知人がそっと教えた「こうしたほうがいい」という価値判断であり、そうしたものによって自らの選択と行動が制約されることになるわけです。他人の選択に動かされる人は、失敗すると当然それを他人の責任にします。しかし本来、他人の主張に従うことを選択したのも自分の選択なので、結果に対しても自己責任のはずです。

   こうして、他人の価値判断を受け入れることに慣れてしまうと、「自分が間違えていた」という意識さえ働かなくなります。つまり、主体性というものを失ってしまうのです。


    まずは、「信じる」ことをやめなさい 苫米地英人著 
        アーススター・エンターティメント

              抜粋



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